最近話題になっているアニメや映画などが語られていると、必ずテンプレ的に湧いてくる「みんなが面白いって言っている○○って作品を見たんだけど、どこが面白いの?全く理解できない」的な批判。下に紹介する記事はコピペにしても良い様なテンプレ的は批判なので、一読してみてください。
Re:ゼロから始める異世界生活のどこが面白いの? - はてな匿名ダイアリー
君の名は。見た。薄気味悪い感動系の駄作。
ガルパンを観た
大体こんな流れですよね?
1)論旨の最初に語られる、「周りの人間は面白いと評判」であること。
2)1)ゆえに観たこと。それ故に後悔したこと
3)自分には面白さが解らないという主張
4)面白いといっている人の感性などを否定及び疑問視
5)面白くない理由を列挙。ただしほとんどアニメでありがちなご都合主義的展開への批判
6)最後に面白いと思った人間に面白いと思った箇所を問いかける
私も面白くない作品を「面白くない!」って批判することはありますが、「面白い」と思っている【人を批判する】ことはしない様にしていますし、「面白い」と思った人の感性は尊重しています。
当たり前すぎて語るのも烏滸がましいのですが、それって【人それぞれ】って言葉で片付いてしまうものですから。
大体○○を面白いと感じる人と面白くないと感じる人って…。
「○○って見た?面白いよね~!!」
「見た。けど面白くなかった」
「…そうなんだ」
で、会話終了ですよね?
「どこが面白かったの?」って上から目線で話しかけられたって、面白いと思った人は気分悪いし、この会話って生産的だと思わないんだよね。
両方面白いと感じる人たちだと…。
「○○って見た?面白いよね~!!」
「見た!面白いよね~!」
「××が△△するところなんか最高だった!」
「俺は□□が…」
と言う感じで、話は盛り上がると思うんだけどね。感性を共感できる人との会話の方が面白い。
あえて「どこが面白かったの?」と問い掛ける人って、解を得ることが目的では無く、やはり「みんなが面白いって思っている作品をつまらないと感じる、他の人と感性が違う俺かっけぇ~~!!」ってまさに厨二病的な意図があるんだろうなって。
しかも、本当にすべてテンプレ的な論旨で、
「あ、また出たw」
って感じ。
もし人と違う感性を持っていることを自慢したいのなら、人がつまらないと批判している作品を面白いと主張することをお勧めする。その方が生産的だと思うけどね。例えば今だと、あえて日本のドラマや邦画とかを絶賛するとか。
Re:ゼロから始める異世界生活のどこが面白いの? - はてな匿名ダイアリー
君の名は。見た。薄気味悪い感動系の駄作。
ガルパンを観た
大体こんな流れですよね?
1)論旨の最初に語られる、「周りの人間は面白いと評判」であること。
2)1)ゆえに観たこと。それ故に後悔したこと
3)自分には面白さが解らないという主張
4)面白いといっている人の感性などを否定及び疑問視
5)面白くない理由を列挙。ただしほとんどアニメでありがちなご都合主義的展開への批判
6)最後に面白いと思った人間に面白いと思った箇所を問いかける
私も面白くない作品を「面白くない!」って批判することはありますが、「面白い」と思っている【人を批判する】ことはしない様にしていますし、「面白い」と思った人の感性は尊重しています。
当たり前すぎて語るのも烏滸がましいのですが、それって【人それぞれ】って言葉で片付いてしまうものですから。
大体○○を面白いと感じる人と面白くないと感じる人って…。
「○○って見た?面白いよね~!!」
「見た。けど面白くなかった」
「…そうなんだ」
で、会話終了ですよね?
「どこが面白かったの?」って上から目線で話しかけられたって、面白いと思った人は気分悪いし、この会話って生産的だと思わないんだよね。
両方面白いと感じる人たちだと…。
「○○って見た?面白いよね~!!」
「見た!面白いよね~!」
「××が△△するところなんか最高だった!」
「俺は□□が…」
と言う感じで、話は盛り上がると思うんだけどね。感性を共感できる人との会話の方が面白い。
あえて「どこが面白かったの?」と問い掛ける人って、解を得ることが目的では無く、やはり「みんなが面白いって思っている作品をつまらないと感じる、他の人と感性が違う俺かっけぇ~~!!」ってまさに厨二病的な意図があるんだろうなって。
しかも、本当にすべてテンプレ的な論旨で、
「あ、また出たw」
って感じ。
もし人と違う感性を持っていることを自慢したいのなら、人がつまらないと批判している作品を面白いと主張することをお勧めする。その方が生産的だと思うけどね。例えば今だと、あえて日本のドラマや邦画とかを絶賛するとか。