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こういう話題のときっていつも思う。私ってば右の人?それとも左の人?

日本と言う国が好きだし、極論的にいえば、日本と日本人以外がどうなろうと知ったこっちゃあないので、そういう意味では保守的だし、国粋的だと思う。

一方では、農業とか工業とか自国の産業を守るために、他国製品に関税や自国製品を優遇するのはどうなのよ?って思うぐらいには、革新的だし、国際的だ。

だからと言って、戦争や武力的解決となると及び腰だし、対話によってすべてが解決できると思っている程度には、理想主義的だし、平和主義的だと思う。

リベラルか?コンサバティブか?

右か左か?

う~む…。

私は韓国人や中国人が嫌いだ。

そういう意味では、差別主義者(レイシスト)でもある。

でもサッカー選手のイ・グノやパク・チュヨン、ソン・フンミンなんて私好みの選手はいる。

多分目の前にいれば、代表選手である彼らに対して敬意を払うし、出来ればサインも欲しいと思うw

まぁ、私の主義主張など、斯くも大概なものなのだ。

そんな私でも「集団的自衛権」に対して思うところはあって。

確かに、昨日の晩一緒にご飯を食べた他国の仲間が、テロリストに銃撃を受けているのにも拘らず、反撃することが許されないと言うのは、人としてどうよ?とは思うし、今回の「集団的自衛権」が認められることで、即日本が軍国化するとか、戦闘行為を容認するとか、極端な方向に舵を取るとか、全然思わないし。

そう、私は「集団的自衛権」を認めるべきだと、思うわけです。

例えばの話、海外の災害復興支援で自衛隊が出向き、他国排斥主義者のテロリストから、米軍が銃撃を受け、たまたま近くにいた自衛隊もこれに加勢。テロリストを殲滅せんがために米軍が、テロリストから銃撃を受けた建物に突入。それを支援していた自衛隊も、それに追随し、自爆に巻き込まれ死傷者多数…。なんてことになるのは、やっぱり遣り切れない。

う~む。認めるべきだと思う反面、心情的なことを言えば、いろいろなケースで、やっぱり遣り切れない。でも、現場やその場面からすると、銃を取って仲間のために戦いたい、と思う人がいたとしても、「集団的自衛権」が認められないとなると、法的にその権利が無い、ということ。

それはやっぱりおかしい。権利としては、認めるべきだ。

そして、銃を取らない選択をすれば良い。

その選択肢の中で、どうするかを考えれば良いのだ。例えば、私は、そういう場面だと、銃を捨てて、スタコラと逃げると思います。もちろんそれを批判するなら、受け止めますし、敵前逃亡は銃殺だぁ、と銃殺されても構いません。私は間違いなく逃げます。

選択する権利があるか、選択する権利もないか。その差は大きいのではないか?と思う。


話を敢えて逸らして。
私は日本が憲法で戦争権の一部を放棄していることが嫌いだ。
紛争を解決する手段として、武力行使を放棄する、ということは武力行使という選択肢が無いと言うことだ。選択肢が無いことは、それだけ他国にとってアドバンテージになる。国土も狭い、資源も無い。スタート地点で、日本と言う国の国力は、他国に劣っているのに。

もちろん私は平和主義者である。
しかし、正しい「平和主義」とは、戦争権を有してはいるが、鉄の意志でその選択をしない、と言うことであると思っている。今の日本は平和主義国家ではない。ただ「武力行使出来ない国」なのだ。

そして昨今。
平和を維持するための敵は、何も国だけでは無い。テロリストとも戦わなければいけない。テロリスト相手に武力行使を選択肢として持たない日本が、果たして平和を維持できるのか?私は甚だ疑問なのだ。

平和を維持するために、武力が必要である。

さらに極論すれば、
平和を維持するために、核武装も厭わない。



極論極論w